--特集 関東大震災

2014年9月13日 (土)

【関東大震災】 名もなきカメラマンの記録から #11

名もなきカメラマンの記録から、、、いよいよ最後のページになりました。

こんな脱線した特集を組んで90年も前のネガからいくつか写真をご紹介してきたわけですが、
今回改めてネガを並べ直し、その撮影過程が明らかになってくると新しい発見もありました。
その場の真実を一瞬で記録する”写真”は本当に素晴らしいものだと思います。
カメラはもちろん、フィルムだってそう簡単に手に入るものではなかったでしょうに、こうして記録を
残してくれたことにまず感謝する次第です。

そして、その記録された写真に映る世界と、様々な文献に残る事実の記録を繋ぎ合わせたとき、
この関東大震災という未曽有の大災害が自分の中でより身近なものに思えてきました。
2006年に96歳で亡くなった横浜生まれ鎌倉育ちの祖父にもっとこの当時の話をきいておけば
よかったと今さらながら大変後悔しています。
大震災や戦争は「怖いもの」としか思っていなかった自分に腹が立ちます。

資料に残らない一人一人の記憶は、誰かに伝えなければそれで終わってしまうのです。
この特集をやって、自分がこの半生で見てきたものをきちんと伝えられるように整理しておきたい
と思うようになりました。

さて、前置きが長くなってしまいましたが最終回は完全に”お尋ね写真”です。
明確な場所の答えが出せないけどすごく気になる写真。。。
どなたかご存知ではありませんか?

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Simg3887

大正12年9月

震災直後の様子をとらえたものと思われます。
今まさに火の手が街を包み込もうとしているようです。
これに繋がるネガは同じようなアングルの1枚だけです。

そんなに高くない丘に挟まれたところには平屋の民家、丘の上には洋風の建物・・・
この感じ、横浜・山手だと思いますが。。。
山手において地震では倒壊せず、後の火災によって消失した丘の上の洋風の大きな建物というと学校
横浜千歳縫裁女学校(後の横浜女学院)
横浜共立女学校(後の横浜共立学園)
横浜紅蘭女学校(後の横浜雙葉学園)
横浜第三中学校(後の横浜緑ヶ丘高校)

場所的にそんなに深い谷ではないようだし、妙香寺から見た紅蘭女学校附属初等科のような
感じがするのですが、私にはまったく確証的なヒントが見つけられません。
この地形と延焼地図から拾っていくしかなさそうです。

見る人が見れば簡単にどこだか判るのでしょうけど・・・。

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Simg3885

大正12年9月9日

続いて9月9日のネガから、これも丘と建物の感じから横浜・山手界隈だと思うのですが、
なかなか確証的な位置が見つかりません。

中央には大変特徴的な洋館が無傷で残っています。
その左、遠くには教会の屋根のような尖塔が見えますね。
手前の瓦礫、樹木のある土地と、洋館の間には谷があります。

ネガを見たときには大神宮山の「ヴィラ・サクソニア」かと思ったのですが、ちょっと様式が違いますね。
それにしても、手前の住居が並んでいたであろう土地は見事に何も無くなっていますね。

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Simg3844

大正12年9月9日

さらに近づいて撮影しています。
本当に立派な洋館で、尖塔部分には何か避雷針のようなものも立っています。

右手には上の写真から続く道が谷に沿ってV字の坂になっているようです。
丘の上は周りにも建物が残っており、谷が焼けつくされたのとは対照的な状況です。
洋館の下の崖には火炎に煽られたような黒い模様が続いています。
画面下で横に続く石垣は手前が道路だったのでしょうか。

これだけ立派な洋館が残ったのですから、何かしらの手がかりが掴めても良さそうなものですが、
今のところ正解に辿りつけていません。

鋭意調査中ですが、皆様の中で何かご存知の方がいらっしゃいましたら、是非ご連絡ください。

こんな感じで終わるのは大変不本意ですが、これにて特集「名もなきカメラマンの記録から」を
終了させていただきます。
お付き合いいただきありがとうございました。
今後もこれらを始めとする撮影場所不明ネガの調査は続けていきます。

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2014年9月12日 (金)

【関東大震災】 名もなきカメラマンの記録から #10 

名もなきカメラマンの記録、最後2回にわたり街の様子をいくつかご紹介してみたいと思います

これまでご紹介した鉄道関連の写真はどれも「現在の姿を知ってる場所」の惨状でしたが、
場所の記載があってもさすがに当時の街並みだけではどこだかすぐに判らないものもあります。
私なりに判る範囲の解説をしてみますので、もし詳しい場所が判る方がいらっしゃったら、
是非ご教授ください。

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S9

大正12年9月12日 星の井

第1回目の江ノ電沿線のネガの他にもう1セット9月12日の日付で鎌倉のものがあります。
その中で街の様子を割りあい広く写したものがこの「星の井」です。

これはもうズバリで鎌倉坂ノ下、星の井近辺ですが、道が左にカーブしながら坂を登っていくところ、
正面の山の中腹に潰れた建物、太陽が画面左から照らしていることなどから、
御霊神社入り口の力餅屋の前あたりから極楽寺坂方向を見たものだと思われます。

道の先を拡大すると・・・

S91

道が左に折れるあたりではお母さんがたらいで何か洗っているようです。
その先、潰れた建物の手前の坂を二人降りてきていますね。
この潰れた建物は当時の虚空蔵堂だと思われます。

戻って左手の郵便ポストあたりを拡大すると・・・

S92

ポストの左に何やら看板らしきものの一部分が見えますが、残念ながら判読できません。

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Simg3862

大正12年9月

続いては9月17日の一連の平塚のネガの前コマです。
最初ネガが繋がった時はこれも平塚で駅の北東、当時の国道1号線(現在の旧道)の馬入川手前かと
思っていたのですが、よく見ると道の上には路面電車の架空電線のようなものが張られている
ではありませんか。。。平塚に路面電車はありません。

中央あたりを拡大してみると・・・。

Simg38621

道路のはるか向こうには三角屋根の大きな建物、道を行くトラックは警察か軍のものでしょうか。
やはり路面電車の架線が張られていますね。
そして、手前の右手に棒のようなものを持った人が着ている半纏の背中にあるのは当時の
東京市のマークのようにも見えます・・・。

これで一気に平塚という選択肢は消えてしまったような気が。。。
いったいこれはどこでしょうか、平塚に来る前に撮った東京?横浜?
皆目見当も付きません。

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Simg38531

大正12年9月19日 小田原

根府川・真鶴を回った帰りに通った小田原の街の様子です。
場所の特定は難しいかと思われましたが、画面上にヒントが散らばっていて、思いがけず判明しました。

画面奥で道路を跨ぐガーダー橋、右下に見えるレールのようなもの、そして最大のヒントは
ガードの上に見える樹木でした。

この当時、小田原界隈で築堤上を走り、ガードで道を跨ぐのは熱海線しかありません。
そして道路に埋もれるようにして敷かれた軌条、左の電柱には架線吊りのビームが出ているのも
見えますので、電化されている市内(当時は町だったから町内?)電車の線路でしょう。
最終的に場所の特定を確実なものにしたのがガードの上に見える樹木、光圓寺の大イチョウでした。
よってここは小田原電気鉄道の早川口(軽便鉄道前)電停付近で間違いありません。

熱海線開通までは写真の左後ろにある路地を入ったところに熱海鉄道(熱海軌道組合)の
小田原駅があって、このあたりは乗り換え客で相当賑わっていたようです。
そして現在でも国道1号線を跨ぐ東海道線のガードの向こうに大きなイチョウの木が見えます。

Simage911

~グーグルマップ ストリートビューより~
こんなことにグーグルマップが役立つとは思いませんでした。
まさにこの場所であります。

そして当時の写真で個人的に一番気になったのが道路右の店舗・・・

Simg38532

道の右側を拡大するといくつもの看板が見えます。

右書きの「親切☆第一 クスリはホシ」、浅田飴に救命丸、アルボースとくれば間違いなく薬屋ですね。

小田原というとこの写真の後方500mほどのところに、今でも「ういろう」と「小西本店」という
老舗の超有名な薬屋がありますが、こんな大衆的な薬屋さんも近くで頑張っていたと思うと、
同じ業界の人間として熱いものがこみ上げます。
救命丸の看板に隠れて屋号が判読できないのが残念です。
最後の一文字は見えるのですが解読出来ません。。。
「変体かな」にしては整い過ぎている感じもしますね。
店舗の被害も少なそうなので、震災時も街の人々の健康と衛生に一役買ったものと思います。

手前には「和洋建築用・・・」という看板が見えていますが、どうやら1階が潰れて2階がそのまま
上に載っているようですね。ご家族は無事だったのでしょうか。
こちらも残念ながら屋号の判読は出来ません。

諦めて記事をアップした後、もう一度調査したところお名前が判明しました!
薬屋さんは剣持さん、建材屋さんが武井さん。。。
が、慌ててアップしたので間違っていたようです・・・。
ガードから22軒目の薬屋剣持さん、隣のノコギリ屋武井さん、ちょっと位置的に遠すぎる。

あ、もっとガード寄りにもう一軒薬屋さんがあるじゃないですか!
ということで、仕切り直し。
調査の元になった図を載せられないのがもどかしいところです。
この薬屋さんはガードから9軒目の 小島さん というお宅のようです。

見つけた大正8年の市街図では薬屋さんの隣がせんべい屋石井さんと手荷物取扱所になっていて、
その隣が大工の牧岡さん。4年でせんべい屋さんが建材屋さんになるかなぁ。
いや、前年の熱海線の開通でここ早川口を始終着としていた軽便が無くなったわけだから、
乗り換え客目当てのお土産屋とか手荷物扱所なんかは商売を変えた可能性もあるよなぁ。

でもまぁ、この薬屋さんは位置的にも「小島さん」で間違いないでしょう!
・・・だから何だ、と言われてしまえばそれまでですが、自分の中ではすごく嬉しいんです。
なんだかちょっとだけこの写真の世界に近づけた気がするんです。

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2014年9月11日 (木)

【関東大震災】 名もなきカメラマンの記録から #9

名もなきカメラマンの記録、まもなく根府川に到達しますが、はっきり言って被害が大きすぎて
ネガに残された写真も何が何だか全く判りません。。。
被災状況の詳細は「鉄道震害調査書」に任せるとして、ネガに日付と場所の記載があるものから
いくつかご紹介したいと思います。

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Simg3895

大正12年9月18日 熱海線 早川-根府川 根ノ上隧道

石橋の鉄橋を通って石橋山隧道を抜けたあとに現れるのが根ノ上隧道です。
これは小田原側の様子で、上を通っていた県道もろとも崩壊し坑口を半分埋めています。
このあたりではレールは上り線側だけ敷設されていたようですね。

現在の東海道線もこのルートを通っていますが、ここにトンネルはありません。
震災後、復旧工事でトンネル修復を諦め、山を削って切通しに変更されているのです。
その痕跡はトンネルだった場所の退避坑がある側壁として今でも見ることが出来ます。

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Simg3867

大正12年9月18日 米神付近

海側の集落端から熱海線の築堤方向を見たものです。
地震と同時に発生した山津波によって米神集落は壊滅状態、かろうじて画面中央を横切る
熱海線の築堤が確認できるだけで、手前の民家は土砂と水没で跡形も無くなっています。

国府津から小田原、根府川へと被災地を記録しながら10キロも移動してきて日没が近いのでしょうか、
ネガに残った画像は大きく手ブレしてしまっています。

この米神と根府川の山津波の被害については 「未曾有の大災害と地震学 -関東大震災-
(古今書院刊)」に詳細があります。

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Simg3892

大正12年9月19日 根府川

在るはずのものが無いので、どこだか判らない写真になってしまっていますが、根府川駅近くの
岩泉寺のあたりから鉄橋のあった方向を撮ったもののようです。

ここも山津波で白糸川沿いの集落と熱海線の鉄橋が被災しています。
開通1年たらずで巨大な鉄橋が橋脚もろとも丸々消えたことになります。

駅があった場所には近づけなかったのでしょうか、ネガがありません。
また、このあたりで鉄道に関するものの痕跡はネガに無く、残念ながらこれだけです。

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Simg3850

大正12年9月19日 熱海線 真鶴付近

一連の熱海線のネガの最後にあるのがこれです。
当時の終点、真鶴駅手前の築堤上で小田原方を見たもののようで、瀧門寺のあたりだと思われます。
記入された数字は10と1/2マイルでしょうか、国府津起点からちょうど17キロ弱で一致します。

ここは駅に近く、すでに複線が敷かれていたようです。
驚くのがこの区間の築堤の崩壊の様子で、下り線の道床がそのままの形で滑り落ちています。
右側、滑り落ちた築堤上に枕木の跡がはっきり見て取れます。
たいした重機も無いこの時代、出来上がったばかりの築堤はまだ土が締まっておらず、いとも簡単に
崩れてしまったのでしょう。

もしこの震災がなければ翌13年度には熱海まで開通し、横須賀線と同時に電車運転が開始されていた
かもしれないというのは歴史のもしも。
そしてそれは戦後の80系湘南電車登場まで待たされることになるのです。

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これで9回続いた鉄道関連のネガを終わりにしたいと思いますが、最後に2ページ分だけ
街の様子などをご紹介して「名もなきカメラマンの記録から」を完とさせていただく予定です。

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2014年9月 9日 (火)

【関東大震災】 名もなきカメラマンの記録から #8

名もなきカメラマンの記録、石橋山隧道を抜けて玉川橋梁へやってきました。
現在でも「石橋の鉄橋」として有名なカーブしたガーダー橋の被災状況です。

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Simg3857_2

大正12年9月18日 熱海線 早川-根府川 玉川橋梁

まずは小田原側石橋山隧道出口付近からの全体像です。
下り線のガーダーが熱海方を軸に落下しているのが判ります。

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Simg3894

大正12年9月18日 熱海線 早川-根府川 玉川橋梁

被害の少なかった上り線の上を歩いて途中まで来たようです。
ここでも下り線はまだ使用されておらず、レールは敷かれていても脱輪保護レールや渡り板などの
補強となるものが無かったため、簡単に動いて落下してしまったということです。

下の民家は大丈夫だったのでしょうか。。。

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Simg3856

大正12年9月18日 熱海線 早川-根府川 玉川橋梁

振り返って小田原側を撮っています。
下り線のレールが虚しく空を跨いでいますね。
このあたりの民家はまだ藁葺きが主体のようです。

一番上の写真やこれなど、100年近くの時が流れても「石橋」であることがすぐ判るというのは
ある意味凄いと思います。

次は米神を通って被害甚大な根府川に向かいます。

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2014年9月 8日 (月)

【関東大震災】 名もなきカメラマンの記録から #7

名もなきカメラマンの記録、今回は小田原駅と早川方面の様子をご紹介します。

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Simg3861

大正12年9月18日 小田原

下りホームの中ほどから熱海方を見た様子です。
ホーム上屋はことごとく崩れ落ち、上りホームでは停車中の客車に覆いかぶさっています。
「鉄道震害調査書」によれば、小田原ではタンク機1両、テンダー機2両、客車6両、貨車32両が
被災しているとのこと。
その客車6両がここに写る一連のナハ22000形と思われ、手前から車掌室の付いたナハフ、
車掌室の無いナハ、2連窓で間隔一定に見えるのはナロ?、・・・と繋がっているようです。

また、洗濯物が干されるなど、なんとなく生活感のあるホームですが、留置された客車の中で
被災民が生活しているものと思われます。

ここではまだ電化の足音は聞こえていないようです。

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Simg3847

大正12年9月18日 早川-根府川 不動山隧道熱海口

次は早川駅を通り越して、最初のトンネル「不動山隧道」を熱海側から撮っています。
ネガにある”5と1/2”は国府津起点からここまでの熱海線の距離、5.5マイル=約8.8kmに一致しています。

美しい複線用のトンネルには上り線側のみにレールが敷かれているようです。
内部のアーチに大きな破綻は見られませんが、こちら側の坑口はポータルに亀裂が入り
迫石に沿って破断してしまっています。
路盤の瓦礫は山側の擁壁が崩れたものでしょう。

この後は石橋のカーブ鉄橋として有名な、玉川橋梁へと続きます。

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2014年9月 6日 (土)

【関東大震災】 名もなきカメラマンの記録から #6

名もなきカメラマンの記録、今回は鴨宮駅を過ぎて酒匂川橋梁の現場から小田原駅構内です。

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Simg3886

大正12年9月18日 鴨宮-小田原 酒匂川橋梁

川に墜落して横倒しになった2号トラスを小田原側から撮影しています。
足場の問題もあるとはいえ、やはり専門の写真家ではなくサンデーカメラマンなりのアングルでしょうか。
もちろん貴重なフィルムですからバンバン撮るなんてことは出来なかったと思いますが。

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Simg3897

大正12年9月18日 鴨宮-小田原 酒匂川橋梁

アングルをちょっと右に移動して横倒しになった2号トラスの底辺と1号トラス方向の様子です。
橋台や橋脚の被害は軽微でしたが、震動で下流側にトラスが移動し、2号トラスは落下して
上流側に倒れたということです。
この区間ではすでに複線の線路が敷かれていましたが、まだ上り線を使った単線運転でした。

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Simg3851

大正12年9月18日 小田原

小田原駅構内の東端付近で国府津方を見た様子です。
築堤が大きく沈下し、留置中だった蒸気機関車「58684」が飲み込まれて転覆しています。

熱海線建設時に国府津駅の裏山から削りだした赤土によって築かれた小田原駅構内の築堤は
年月が浅いため締まっておらず、このように甚大な被害を出したということです。

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2014年9月 5日 (金)

【関東大震災】 名もなきカメラマンの記録から #5

筆休めに模型を挟んで、名もなきカメラマンの記録の5回目です。
平塚の翌日は国府津から小田原、熱海線方面へとかなりの距離を移動したようです。

ここでも鉄道が関係するネガからいくつかご紹介してみましょう。

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Simg3852

大正12年9月18日 国府津

国府津駅西方から熱海線の小田原方面を見たところです。
光線の状態から、午前中早い時間の撮影のようですね。

波打った複線の線路と中央には倒れた場内信号機が見えますが、この時はまだ単線使用だったようです。
まっすぐだった築堤は大きく崩れ原型を留めていません。
熱海線の築堤は全体に竣工から年月浅く、各地で大崩壊の被害が出たそうです。

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Simg3893

大正12年9月18日 国府津

橋台が崩壊して橋げたが落ちた江戸尻川橋梁の様子です。
築堤も大きく崩れ、橋げた上の枕木から外れたレールが宙を跨いでいるのが判ります。

再掲載ですが、鉄道の被災状況は「鉄道震害調査書 大正12年」に詳細があります。
国立国会図書館 近代デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/
「鉄道震害調査書 大正12年」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1175815

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Simg3854

大正12年9月18日 鴨宮

ネガに場所と日付の記載が無いですが、続いて現れるのが酒匂川橋梁なので、その手前の
鴨宮駅と判断した次第です。
拡大しても鴨宮駅の確証となるものは何もありませんが、前方の山並みと前方線路が左に
カーブして行く線形から間違いないものと思います。
鴨宮駅舎倒壊、跨線橋被害軽微という「鉄道震害調査書」の記述にも一致します。
6月1日に酒匂川信号所から駅になったばかりでした。

ここで注目したいのが構内の様子で、なんとすでに上下線とも架線が張られています。
電化時には一方向に架線の吊架を進めるのではなく、あちこちの駅から工事を始めて全体を
繋げるという方法をとると早いのは判りますが、横浜-国府津間の電化完成が大正14年12月13日、
熱海線の小田原までの電化が大正15年2月1日で、まだ盲腸線だった熱海線の小駅がこの時
すでに電化準備完了していたとは驚きです。
ちなみにこの当時の辻堂駅は下り線だけ架線が張られていたようです。

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2014年9月 3日 (水)

【関東大震災】 名もなきカメラマンの記録から #4

名もなきカメラマンの記録、平塚の続きです。

平塚側から馬入川橋梁の被災状況を撮った後、一度駅方面に向かい近隣の状況を撮っています。
途中でフィルムが変わっているようでネガ自体がうまく繋がっていませんが、同じ17日の記録です。

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S24

大正12年9月17日 平塚

次のフィルムの最初はこのネガで、日付と場所の記載が無く、繋げてみて初めて判った次第です。
最初は小田原付近の様子かと思ったのですが、後のコマと繋がると再び17日の馬入川が出てくるので
同じ日の平塚付近と判断しました。

画面の左端で大きく右カーブして馬入川橋梁に繋がる付近だと思われます。
線路際の建物は完全に倒壊していて原型を留めていません。
中央奥には大きな倉庫のような建物が残っていますが、小屋組みのトラスが落ちて崩壊寸前でしょうか。

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S22

大正12年9月17日 馬入川

上り線の平塚方橋台上から茅ヶ崎方を見た様子です。
左上遠くに見える人道橋は木造の橋脚が残るだけになってしまっています。

二つ目のガーダーの右側にはナベトロのような台車があちこちに散乱し、その側板には右書きで
「宮代」の文字が見えます。

こんな状況で重機もないのに2週間で単線仮復旧させてしまう技術、根性は恐ろしいものです。
まさに人海戦術といった工事現場だったのでしょう。

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2014年9月 2日 (火)

【関東大震災】 名もなきカメラマンの記録から #3

名もなきカメラマンの記録から、しばらく続けていきたいと思います。
#1、#2と鎌倉~江の島方面を撮り歩いたネガから出してみましたが、この地域の写真なのに
どうしてもネガの切り口の状態がどこにも繋がらないものが2点残りました。

他の地域のネガも繋げてみると3コマとか2コマで、どこにも繋がらないコマ連があるので、
もしかすると核心部分はどこかに提供してしまった後の残りなのかも知れません。

続いてのネガは稲村ケ崎(霊山ヶ崎)の崩落現場から始まり平塚に向かっています。

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S23

大正12年9月17日 馬入川

最初に出てくる鉄道関係は、東海道線で最大の被害となった馬入川橋梁です。
規模的には根府川が被害甚大ですが、当時まだ熱海線と呼ばれていました。

茅ヶ崎方上流方向から上り線の第四橋脚付近を写したものと思われます。
馬入川橋梁では上下線ガーダー合計56連のうち、47基が落ちたと記録されています。
落ちずに残ったガーダーは全て茅ヶ崎方のものでした。

鉄道の被災状況は「鉄道震害調査書 大正12年」に詳細があります。
国立国会図書館 近代デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/
「鉄道震害調査書 大正12年」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1175815

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S21

大正12年9月17日 馬入川

どうにか川を渡って平塚側に来たようです。
たくさんの人夫が現場に入っているのが判ります。
「鉄道震害調査書」によると、この日は復旧工事の着工日だったようです。
遠く左上の川の中には人道橋の残骸も見えます。

復旧は下り線の橋脚基礎を使用し、馬入川人道橋を架け替えるために用意してあった木材を橋脚に流用、
落ちたガーダーを引き上げて10月1日に単線開通したということです。

工事着手日に合わせてここに来ているということは、何らかの関係者だったのかもしれません。

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【関東大震災】 名もなきカメラマンの記録から #2

名もなきカメラマンの記録から、次のコマでは振り向いて江ノ電の線路越しに倒壊した鈴木療養所、
さらに西へ歩いて山本橋から鵠沼方面へ出たようです。

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S10

大正12年9月12日 片瀬 七里ヶ浜

#1の「七里ヶ浜」の右手後ろを写したアングルで、ちょうど鈴木療養所が見えます。
竹垣の手前が江ノ電の線路で、崩れた民家と蔵の背後、高い位置の建物が鈴木療養所の
渡り廊下と病棟でしょう。

「鎌倉震災誌」には全壊したとありますが、鈴木病院のホームページ”鈴木病院の歴史”によれば、
二階建ての本館は残ったということです。

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S11

大正12年9月12日 鵠沼

どうしてもこのネガに書かれた「鵠沼」が判読出来ずに、最初はずいぶんと悩みました。
ネガのつなぎ合わせが終わった時に、隣のコマに「クゲヌマ」とあったため、無理やり読めた次第です。
”鵠”の字の”牛”が見えて下の”口”は見えず、”鳥”の四つ点は一本棒になっているということでしょう。
”沼”はどうにか”刀”の部分が判るので、さんずいは縦棒に変わり、”口”はほとんど横棒ですね。

その右の字が判別不能で”N”と”E”と数字が見えるのですが、位置情報としては不適切なようです。

さて、写真は交換設備があることから、鵠沼駅を藤沢側から見たものと思われます。
傾いた電柱の奥にホーム上屋が見えています。
しかし手前のポイント付近の屈曲は凄まじいですね、30度近く折れた感じでしょうか。

境川橋梁の写真は無く、どうしてこのアングルになったのか疑問もありますが、やはりこの屈曲部に
眼を奪われたのかも知れません。
この後”クゲヌマ”と書かれた、倒壊した家屋の写真で一連の6コマを終えています。

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